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2008年8月 6日 (水)

スカイ・クロラ(2)

前回の続きであります。

この映画の最大のポイントは「ティーチャー」という敵のエースパイロットの存在です。彼が操る戦闘機は描かれますが、彼自身の姿は最後まで現れません。彼がどういう人物なのかは映画の登場人物たちの言葉から推し量るしかありません。

「大人の男である」

「彼と一戦を交えて帰還した者はいない」

「以前はこちら側で仕事をしていたが、敵側に移っていった(理由は語られない)」

「クサナギと何らかの関係があるようである(子どもの父親かもしれない)」

ここでひとつ疑問が湧いてきます。この映画の中で戦闘要員として描かれているのはキルドレだけです。その中に1人だけ「大人」が混じっているのは不自然じゃないでしょうか。

「ティーチャー」というのは本当に本当に「大人」なのか?

ティーチャーは実際はキルドレであるけれども、人間として成長して「大人」になった(「大人」と称している?)のではないかな、と邪推しています。さもなくば、カンナミの原形のようなヒト(そのヒトの遺伝子を操作して新たに生み出されたのがカンナミ?)では?クサナギとティーチャーに何らかの関係があったことから推察されるのは、ティーチャーとカンナミは同一であるということですね(さらに言えば、カンナミの前任者とも)。

自分と同じ姿形をした者が他に存在するということは、その人はまごうことなく「キルドレ」であるわけですから、自分が「大人」であるためには、「その他の自分」がこの世に存在することは許されないわけです。

ではどうするか。

「その他を抹殺する」のが一番手っ取り早いですね。できれば合法的がいいですね。

「以前はこちら側で仕事をしていたが、敵側に移っていった(理由は語られない)」

こう考えると....全ての筋が通る気がするんですけどね。どうかしら。

さらに言えば、前任者がクサナギに殺されたのも、これに近いところまで知ってしまったからではないかと思うんですよ。彼女が愛しているのは確かに自分(前任者)であるけれどもそれは別の肉体と人格(ティーチャー)である。でもそれは自分である。娘も自分の娘である。この混乱の中で前任者は死を選ばざるを得なかったのではないかなぁ。

ついでに言うと、クサナギがティーチャーに戦いを挑んで撃墜され、九死に一生を得るシーンがありますが、自分の愛するヒトは今基地で自分を待っているはずなのに、目の前の敵の戦闘機の中にもそのヒトがいるということになったら、どちらかがいなくなるか、さもなくば自分が死んでしまうか、しかないかもしれません。

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この映画は、子どもが大人に成長するためには「父」を否定しなければならない、というメタファーとして捉える方が鑑賞しやすいかもしれません。私も映画を見ながら考えていたのはどちらかというとそのことでした。

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ある意味、とてもめんどくさい映画です。私のような凡人からすると、もう少し「分かりやすく」つくって欲しかったなと思います。だってもう一回見に行かなくちゃならないじゃないですか、確認のために。

前回、今回と勝手なことを書きまくってますが、原作とかガイド本に全く違うことが書いてあったら大笑いですな。でも、こんなに妄想をかき立てる映画ってあんまりないと思いません?

まぁ、いいですよ。世間の評判はどうであれ、私にとっちゃ大傑作なんだから。

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2008年8月 5日 (火)

スカイ・クロラ

”もう一度、生まれてきたいと思う?”

「スカイ・クロラ」を鑑賞。

私にとってはとても難解な作品でした。

「つまんない、最低」という意見も判らんでもないですが、私的には支持したいという気持ちです。

映画評を書く時にはあらすじを簡単に示すのが常道でしょうけど、それが非常に難しいので、感想を思いつくままにざっくり書いてみます。つまり、映画を見ていない人には何を言いたいのかさっぱりわからん、ということになるでしょうけどね。

この映画の背景となる重要な設定として「永遠に年を取らないコドモ(の容姿をしたヒト)が再生産される世界」であるということです。そのコドモを映画の中では「キルドレ」と呼んでいます。

映画を観た時には「永遠に年を取らないコドモ」というのはセリフでも出てくるので比較的判りやすいのですけど、彼らが「再生産」されているというのは映画を見終わってからやっと気づきました。

主人公の同僚として新聞紙を几帳面にたたむ癖があるキルドレが描かれていましたが、彼が戦死した後に、姿形は微妙に違う同じ癖を持つキルドレが「補充」されてきます。DNAが同一のクローン猫であっても毛の模様は違うということと同じことなのかもしれません。

主人公は補充されたキルドレに対して、「同じ癖を持っている奴がいた」とつぶやきかけるシーンがあるので、自分がキルドレであることは知っていても、「再生産」されているのは知らないという設定のようです(ただ、この瞬間に自分の状況を悟ったようではあります)。

この物語りそのものも、主人公のカンナミが前任者の代わりにある基地に「補充」されてくるところから始まって、カンナミが戦死した後に再生産されたカンナミによく似たキルドレが再び「補充」されてくるところで終わります。ただただ、淡々と描かれているので映画館をでる時は理解できなくて、頭の中で「?」が飛び交っていたのですが、考えていくとだんだん腑に落ちてきました。もしも理解しながら映画を観ることができたら、最後のシーンで泣いてしまったかもしれません。

この設定を前提とすると、キルドレは生まれついてのもの(というか、大人によって人為的に造られた命)であるはずです。本当のこどもから「どうして大人になれないの?」と聞かれて「なれないんじゃなくて、ならないんだ」とカンナミが答えるシーンがありますし、「これから死んでいくのになぜ大人にならないといけないんだ」と反論するようなシーンもありますので、彼らは自分の出自にどのくらい自覚的かは判りませんが、自分の存在自体は肯定している(肯定したい)ようです。

ただ、キルドレであるという存在が居心地がいいかというと、そうではないものも一部にはいて、その1人がミドリという人物(彼女もキルドレ)です。彼女は自分の存在そのものに常にイライラしていています。理由は「自分が何者かがわからないから」。他のキルドレ(クサナギを除いた)は過去の記憶がないことを受け入れている(疑問に思っていない)ので地上での物語りは表面上は淡々と描かれていきますが、ミドリは自分にはっきりとした過去の記憶がないことに不安を覚えているので、周囲と摩擦を起こしていきます。彼女の存在は映画の中では「うるさく」描かれていますので、「なんだか邪魔だな」という違和感を感じてしまうほどです。でも、彼女の存在が後半の流れを生む鍵となっていくのであります。

ミドリはクサナギを憎み、殺そうとします。この点が私は実はよく理解できませんでした。正しいかどうかはわかりませんが、2通りに理解しています。ミドリがクサナギを疎ましいと思ったのはクサナギがキルドレであるにも関わらず、過去の記憶を持っているからであると。記憶の積み重ね、経験の蓄積が成長を生むわけですから、キルドレの中では最も大人に近い存在であるということになるでしょう(もし10歳くらいの子どもを生んでいるとしたら、その分の記憶の蓄積はあるはずです)。ミドリ自身も大きな戦闘の前に死ぬかもしれないというのに、子どもボランティアの予定が変更されるかどうかをとても気にしているように、ささやかではありますが、社会と積極的に関わろうとしています。必死に基地での生活と空での戦闘以外の記憶を造ろうとしているかのようです。

でも「それだけ」で殺す理由になるでしょうか。もう一つの理解は邪推と思われるかもしれませんが、ミドリは「クサナギの再生産」ではないかということです。ミドリがカンナミに惹かれていく理由は全く描かれていませんが、カンナミとクサナギが自然と惹かれあう姿が必然であれば、ミドリがカンナミに好意を抱くのも必然であるでしょう。クサナギが存在する限り、ミドリはクサナギのコピーにすぎないことに気づいてしまい、殺そうとしたのではないかと考えています。

結局ミドリはクサナギを殺すことができませんが、クサナギ自身が自分を殺すようにカンナミに懇願します。永遠に生き続けることに耐えられなくなったというよりは、同じ日常が繰り返されること(もしかしたら、今のこの瞬間すらいつか繰り返されるかもしれない、という荒涼とした思い)、その一方で、自分の娘(?)は日々成長してやがて自分に追いついてしまう(そして年老いて死んでいく)という現実。

カンナミは「君は何かが変わるまで生き続けろ」とクサナギを説得して死を思いとどまらせるのが、この静かな物語りのハイライトではあります。この言葉には力はありますが、意味はありません。カンナミが最後の戦闘に向かうシーンでのモノローグでは正反対の言葉をつぶやいています。

「同じじゃいけないのか?」

でもその後、彼は「何かが変わるかもしれない」と思い込んで、ティーチャーに戦いを挑み戦死してしまいますが、それこそが「同じことの繰り返し」なのかもしれません。

 

このすさまじい世界観が分かっていないと「戦闘シーンはすごいけど、地上のシーンはいまいちだね」ということになってしまうかもしれません。

”もう一度、生まれてきたいと思う?”

これって、最高のコピーじゃない。

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